内省の海

持病との付き合いや日々思うことをつらつらと

無意味な叱り

根っからの平和主義(事なかれ主義ともいう)なので、基本的に他者に対して怒るということをしない。

元恋人からも「自分はしょっちゅう怒るのに(彼はわりあい沸点の低い人だった)、あなたは全然怒らないから逆に怖い」と言われる始末だ。

もちろん僕も聖人じゃないので日常腹の立つことはしょっちゅうある。

しかしここで互いの怒りをぶつけ合うのにエネルギーを消耗するより、自分ひとりが我慢するほうがその場も丸くおさまるしエビバデハッピーじゃん?という思考回路なのだ。

さいわい引きずらない質なので一晩経てば大抵の嫌なことも(大事なことも汗)きれいさっぱり忘れている。

まあそれが良いか悪いかはさておき(現に元恋人はそれが不満だったみたいだし?)、怒ることないし叱ることには意味があるものとないものとがあると思う。

 

僕が思う後者のパターンは(これは裏を返せばこういう場合に僕を叱らないでほしいということなのだけど)、叱る相手が普段ならまずそんなミスはしないのに何かイレギュラーなこと(たとえばとても急いでいたとか体調が悪かったとか)があってうっかり過失を犯してしまった場合だ。

もちろんうっかりでも決してあってはならない過失はあるが、ここで言っているのは当然取り返しのつく軽微なミスだ。

その場合、行為者に対するフォローは「○○を忘れてたよ」のように事実の伝達だけに留め、そこに非難めいたニュアンスを加える必要はないと思う。

なんなら、二度とこんなことは起こらないと確信するほどであれば注意しなくてもいいくらいだ。

なぜならそうした状況における行為者は、往々にして自身の過失に対して自覚的で、叱られずとも十分自責の念に苛まれているからだ。

ここでの叱責は「叱り手がスッキリする」以上の意味は持たないと思っている。

そんなときは怒るよりもむしろ行為者の心情に寄り添って、同じ失敗を繰り返さないための対策をともに考えるくらいの余裕がほしいものだ。

 

そしてもうひとつは、相手に注意するまでもなく自分がフォローすれば済んでしまうパターン。

これは実家に戻ってからしきりに感じるようになったのだが、人間ある程度の年齢になるといくら注意しても簡単には直らないらしい。

先日、母とこんなことがあった。

彼女は1dayの使い捨てコンタクトを着用しているのだが、そのプラスチック容器をなぜかすぐ隣にあるごみ箱に捨てず、毎朝洗面台に置いたままにするので、何度か注意したのだが一向に改善の兆しが見られなかった。

そこで気づいたのは、相手が行動を改めないことにイライラを募らせるよりは、自分がさっとその容器をごみ箱に捨ててしまうほうがよほど精神衛生を保てるということだ。

こうした考え方を続けているうちに、いつしか怒らないことが常態化してしまった。

しかし理不尽な目に遭うなどして肝心な怒りを露わにしなければならないとき、怒りの瞬発力が鈍っていることで割を食うのも考えものだ。うーむ。