明日を考えない人々
弟が酒に酔って転倒し、顔面ぐちゃぐちゃで帰宅したのだが、病院に行こうとしないのでなぜか尋ねると、なんと健康保険に入ってないからだと言う。
定職にも就かず、刹那的な生き方をしているやつだとは思ってたけど、まさかここまでだとは。
ゲイにも同様に非正規雇用でその日暮らしに生きている人が多いと感じるが、一方でエリート街道を突き進み、目ん玉が飛び出すような収入を得ている人もざらに存在する。
しかしどちらの生き方にも、通底するのは「自分は家庭(子供)を持つことがないから」という思想だと思う。
同じ動機でも「自分ひとりが日々食っていければそれで十分」と思う人と「何があっても自分ひとりの力でどうにかしなければならない」と思う人、こうも二極化するのは不思議だ。
その後、弟は問答無用で父に病院へと連れてかれた。
今週末、韓国の格差社会を描いた映画「パラサイト 半地下の家族」を観る予定だが、身内に思わずワープアがいると知ったことで身につまされる内容となりそうだ。
美容室という名の異空間
数年ぶりに美容室に行くことにした。
生まれつき毛量が多いため、カット直後のスタイリングがひと月と保たず、毎月の美容室代も馬鹿にならなかった。
いわゆる1000円カットにも行ったことはあるがあまりいい思い出がなく、どうしようかと懸案していたところ、友人からカット専門店なるものを教えてもらったのが数年前。
そうした業態店は1000円カットより数百円ほど高いものの、若い顧客も多くおしゃれカットにも対応しているとのこと。
一人暮らしを始め、近所にお気に入りの店を見つけて以来、その圧倒的な安さからもっぱらカット専門店のお世話になっていた。
しかし実家から通うにはさすがに遠く、また店側から定められた期限内に再来店することで格安で切ってもらえるというシステムだったため、だらだらと逡巡しているうちに期限を過ぎてしまった今、あえてその店に行く理由もなくなってしまった。
そうこうしていると髪もだいぶ伸び、ここまで長くなったならいっそパーマでもあててみっか、と思った次第である。
前置きが長くなったが、数年ぶりの美容室は驚きの連続だった。
まず席に着くと「お飲み物はいかがされますか?」と訊かれて面食らった。
何があるのか尋ねるとコーヒー紅茶はもちろん、麦茶緑茶昆布茶はてはコンソメスープまで、ちょっとしたカフェ並のラインナップだ。
しばらくするとサイドテーブルに頼んだホットティーと小袋に入ったお菓子が置かれた。
一服つきながら美容師に希望のヘアスタイルを伝えたのち、シャンプー台まで移動するよう促された。
シャンプーされながら「飲み物を出してくれるなんていいサービスですね」と美容師に話しかけると「最近はどの美容室でもやってますよ〜」と事もなげに返された。
近頃の美容室のおもてなしレベルがそんなことになっていたなんて。
隔世の感を覚えながら元の席に戻ると、腕が疲れないよう三日月型の巨大なビーズクッションが膝の上に置かれた。なにこれ快適。
パーマをかけられている間、改めて店内を見回すと一昨年オープンしたばかりということもあり、あらゆる設備から真新しい印象を受けた。
随所にドライフラワーやアンティーク調の小物、よくわからない幾何学形のオブジェが飾られ、それらは店内をより洗練された空間にするとともに、内装に対するオーナーの並々ならぬこだわりを感じさせた。
極めつけは帰り際に入ったお手洗いで、当然のように鎮座しているイソップのハンドソープ。参りました。
過度なおしゃれ空間に若干あてられたものの、接客から仕上がりまで何もかもがハイクオリティで、会計は普段行くカット専門店の6倍以上(パーマもあてたんだから当然だが)だったが、非常に満足のいく体験となった。
しかし今回は新規限定のネットクーポンを利用したうえでこの金額だ。
今までカット専門店に通っていた頻度でこのレベルの支出が続いたら、年間に充てる美容室代としては明らかに予算オーバーである。
今後は近所のカット専門店と交互にローテーションしながら、たまの贅沢としてこのおしゃれすぎる異空間を訪れようと思った。
生き延びるためのネットリテラシー
一か月以上前から続いてる父の咳がてんで快方に向かわない。
数週間前に父がテキトーに調べて行った病院(そもそも呼吸器内科ですらない)はイマイチだったようで、出された薬もあまり効果がなかった。しかたないので自分が代わりに病院を探すことに。
とりあえず「市名+呼吸器内科」で検索。
ずらずらっと上位に出てくるのは当然SEO対策だろうからあまり当てにはしない。 Googleマップ等で評判のよい病院をいくつかピックアップしホームページのURLを父に送ると、うちから最も近いA医院に行こうとしていたので、もう一度どんな病院か確認した。
すると院長の経歴が目に止まった。
そこに「某総合病院の副院長」とあったのでその病院の評判を見てみると、まあひどい口コミが出るわ出るわ。あまりにも多いので過去に恨みでも買った業者の仕業かと疑うほどだが、確認すると投稿数もそれなりのユーザーからで、内容が具体的かつ客観的な口コミも散見された。
もちろんネットの口コミを鵜呑みにするのは危険だが、火のないところに煙は立たないだろうし、他に選択肢もあるのだからここは避けたほうが無難だろうという判断に至った。
そこでもう一方のB医院を勧めると、父は所在地を確認し「遠いなあ、クソ田舎じゃねえか」とあまり乗り気ではない様子だったが、理由を説明し説き伏せてそちらに行かせた。
数時間後、土曜ということもあって混雑していたようだが帰宅した父の顔は満足げだった。どうやら医師の対応は行き届いたものだったらしい。
咳の原因はまだ不明だが、一週間後、血液検査の結果を聞くため再訪するとのこと。
それにしても体調が優れないのに毎日の晩酌は欠かさないし休日はスロットに行くし……新型コロナウイルスも流行ってるというのに、もう少し自分の立場をわきまえて体調に気を配れよと思う。
と同時に、もう還暦目前の父に先ほどの自分と同じように、ネットを駆使して良い病院を探せというのもいささか酷な話だ。なんせここまで調べたってハズレを引くこともあるのだから。
これからは健康体で生きていくためにも個々人のネットリテラシーが試される時代になることは間違いない。
無意味な叱り
根っからの平和主義(事なかれ主義ともいう)なので、基本的に他者に対して怒るということをしない。
元恋人からも「自分はしょっちゅう怒るのに(彼はわりあい沸点の低い人だった)、あなたは全然怒らないから逆に怖い」と言われる始末だ。
もちろん僕も聖人じゃないので日常腹の立つことはしょっちゅうある。
しかしここで互いの怒りをぶつけ合うのにエネルギーを消耗するより、自分ひとりが我慢するほうがその場も丸くおさまるしエビバデハッピーじゃん?という思考回路なのだ。
さいわい引きずらない質なので一晩経てば大抵の嫌なことも(大事なことも汗)きれいさっぱり忘れている。
まあそれが良いか悪いかはさておき(現に元恋人はそれが不満だったみたいだし?)、怒ることないし叱ることには意味があるものとないものとがあると思う。
僕が思う後者のパターンは(これは裏を返せばこういう場合に僕を叱らないでほしいということなのだけど)、叱る相手が普段ならまずそんなミスはしないのに何かイレギュラーなこと(たとえばとても急いでいたとか体調が悪かったとか)があってうっかり過失を犯してしまった場合だ。
もちろんうっかりでも決してあってはならない過失はあるが、ここで言っているのは当然取り返しのつく軽微なミスだ。
その場合、行為者に対するフォローは「○○を忘れてたよ」のように事実の伝達だけに留め、そこに非難めいたニュアンスを加える必要はないと思う。
なんなら、二度とこんなことは起こらないと確信するほどであれば注意しなくてもいいくらいだ。
なぜならそうした状況における行為者は、往々にして自身の過失に対して自覚的で、叱られずとも十分自責の念に苛まれているからだ。
ここでの叱責は「叱り手がスッキリする」以上の意味は持たないと思っている。
そんなときは怒るよりもむしろ行為者の心情に寄り添って、同じ失敗を繰り返さないための対策をともに考えるくらいの余裕がほしいものだ。
そしてもうひとつは、相手に注意するまでもなく自分がフォローすれば済んでしまうパターン。
これは実家に戻ってからしきりに感じるようになったのだが、人間ある程度の年齢になるといくら注意しても簡単には直らないらしい。
先日、母とこんなことがあった。
彼女は1dayの使い捨てコンタクトを着用しているのだが、そのプラスチック容器をなぜかすぐ隣にあるごみ箱に捨てず、毎朝洗面台に置いたままにするので、何度か注意したのだが一向に改善の兆しが見られなかった。
そこで気づいたのは、相手が行動を改めないことにイライラを募らせるよりは、自分がさっとその容器をごみ箱に捨ててしまうほうがよほど精神衛生を保てるということだ。
こうした考え方を続けているうちに、いつしか怒らないことが常態化してしまった。
しかし理不尽な目に遭うなどして肝心な怒りを露わにしなければならないとき、怒りの瞬発力が鈍っていることで割を食うのも考えものだ。うーむ。
凹
ゲイ界の隠語ではなく文字通り凹んでる。
今日一日で私物をみっつも損壊してしまった。
粗忽者もここまでくると怒りを通りこして呆れてくる。
自分は超がつくほどケチなので、自分が金を出して買ったものが損なわれるのは死ぬほど嫌いだ。
だから何かを失くしたり壊したりしたときには、二度と同じ過ちを犯さぬよう「失敗ノート」と称したメモ書きに内容と対策を記すようにしている。
例えば今日ならば
内容:
バイクのシートの上にiPadを置いていたら振動で落下し傷がついた
対策:
不安定な場所に大切なものを置かない
といった具合だ。
しかしノートを遡ってみると似たような失敗が山のように書き連ねられている。
これでは記録をつけることが何の意味も成さない。
自分の学習能力のなさに心底うんざりしたので、自戒の意味も込めてここに記録する。
あーもう!
依存
あくまで自分の観測範囲内だが、HIV陽性者にはセックス依存傾向の強い人が多いと感じる。
セックス依存者はコンドームを使用しないことが多く、そのことからも彼/彼女らにHIVを含むSTD罹患者が相対的に多いことは想像に難くない。
かくいう僕も感染前はセックスに依存していた。
過去記事で「自分は他者の承認なしに自尊感情を得られない」と述べたが、その最たるものがセックスで求められることだった。
以前、好意を寄せていた人から手痛い仕打ちに遭ったことで恋愛に対する自信をすっかり失ってからというものの、体を求められることは最も手っ取り早く自分の存在意義を確かめられる手段だった。
暇さえあれば出会い系アプリでセックスの相手を渉猟していたし、相手が見つからなければ持て余した性欲を発散するため、ポルノサイトを閲覧しながら猿のように自慰を繰り返す、そんな毎日。
その末路がこれ(HIV感染)である。
ではHIV感染後、その傾向はどのように変わったか。
感染発覚直後は性欲が湧くどころか性的なものに触れることさえ忌避していた。
しかし時間薬とはよく言ったもので、1ヶ月もすれば以前ほど頻繁ではないにしろ自慰も行うようになっていた。
ただしセックスに関してはそうはいかなかった。
ある程度、性欲が戻ってきたところでそういう機会に恵まれたとき、まったくイクことができなかったのだ。
快楽を求める気持ちより、相手に感染させるかもという不安(もちろんセーフだったが)のほうが勝っていたのかもしれない。
それから服薬を続けてウイルス検出限界以下、いわゆるU=Uとなり、そうした心配の必要もない今となっては、セックスなしの生活が当たり前になっていた。
たまに魔が差しても自己処理で十分にやり過ごすことができる。
ちょうどその頃から、ある男性とデートを重ねるようになったのだが(彼についてはまた別の機会に)、そこでまた別の問題が浮上した。
彼は内面は魅力的だったが、外見はまったく僕のタイプではなかったのだ。
だからいざそういう場面になったとき、自分のムスコがちゃんと反応するか自信がなかった。
結論から言うと、それは杞憂だった(笑)
むしろ内面に魅力を感じないと、自分はもう勃たないんじゃないかとすら思えた。
それはそれでセックスに対するハードルが上がってしまったと言えなくもない。
話を戻そう。
感染発覚からしばらくの間、性的なものから距離を置くことは多くの感染者に共通しているように見える。
その後、性欲を取り戻すことは、前を向いて進む活力が得られたという意味でも喜ばしいことだろう。
問題は、感染前と同じセックス依存傾向に揺り戻されてしまう場合だ。
残念ながらTwitterでは、検出限界以下かどうか定かではないにもかかわらずセーファーセックスに努めないHIVキャリアも多く見られる。
そんな人たちに僭越ながら僕がアドバイスできるとすれば、月並だが「セックス以外に夢中になれるものを見つける」ということだ。
僕は感染を機に仕事を休職し、以前から興味のあった業界に進むため学校に通いだした。
そこでは幸か不幸か、予想をはるかに上回る量の課題を課されて半ば強制的にセックスから遠ざけられるかたちとなった。
学校修了後も将来に向けて勉強することにやりがいを感じる今は、自尊感情をセックスに頼ることはなくなった。
もちろんそれは実家が都内にあるなど、自分の環境が恵まれていることは百も承知している。
それでもかつての僕と同じように「自信を得るためのセックス」に依存している人は、趣味でもなんでもいいからセックス以外に打ちこめるものを探してほしい。
そして、それでもどうにもならないというときは医療機関やカウンセリングを受診してほしい。
僕自身、抑うつ気味になって精神科を受診した際、(セックス依存こそ伏せたものの)そこでの医師の助言は今でも大きな指針となっている。
誰かに必要とされないと自分の存在価値が感じられない時はどうすればいいか、精神科の先生からもらったアドバイス
— フカン (@fkan_life) 2019年6月7日
① 小さな目標を立てて達成する
② ①を繰り返し、自分にコントロールできるものを増やしていく
そして自分が新たなHIVの媒介者にだけはならないでほしい。
それだけが僕の切なる願いだ。
<参考>
読みながら自分にもかなり当てはまると思った漫画